嵐山と嵯峨野の研究——井上章一の貢献
はじめに
井上章一(1955年生まれ、京都府嵯峨野出身)は、日本を代表する建築史家・文化史家であり、現在は国際日本文化研究センター(日文研)所長を務めています。彼の学術研究は「脱神話化」(demythologization)を核心的方法論とし、日本文化史における様々な「神話」の歴史的構築性を明らかにすることに力を注いでいます。
その多くの著述の中で、嵐山・嵯峨野・小倉山一帯は彼の出生地・成長地であるとともに、繰り返し研究対象として立ち返る場所でもあります。本稿は、井上章一によるこの地帯の著述と研究を体系的に整理し、その学術的貢献を分析し、より広い京都文化研究の文脈の中で評価することを目的とします。
一、嵯峨野出身者のアイデンティティ政治:『京都ぎらい』の洛外視点
1.1 『京都ぎらい』の核心的論点
2015年に出版された『京都ぎらい』(朝日新書)は、井上章一のこれまでで最も影響力のある著作であり、累計販売部数は50万部を超え、サントリー学芸賞(2016年)を受賞しました。本書の核心的論点は、一見逆説的なアイデンティティ宣言の上に成り立っています。嵯峨野出身者として、彼は京都の文化的ヒエラルキーの中で常に「洛外人」——つまり正統な京都人ではない存在——として扱われてきたというものです。
「わたしは嵯峨野で生まれ育った。しかし、洛中の人たちからは、よそ者あつかいをされてきた。」
このアイデンティティ体験が、「洛中中華思想」批判の感情的基盤と認識論的出発点を形成しています。「洛中中華思想」とは、洛中(京都市中心部)を文化的正統とする優越意識であり、洛外(嵯峨野・嵐山などを含む)を文化的辺境・他者とみなすものです。
1.2 嵯峨野の「洛外」アイデンティティ
『京都ぎらい』の中で、井上章一は多くの具体的な生活体験をもとに、洛外地帯としての嵯峨野の文化的状況を描写しています。嵯峨野は歴史的に皇族・貴族の別業地帯であり、天龍寺・常寂光寺・二尊院などの著名な寺院を有しているにもかかわらず、洛中の人々の目には、嵯峨野は常に「田舎」——美しいが「京都らしくない」場所——として映ってきたと指摘します。
この論述は、彼の研究に明確なアイデンティティ政治的次元を与えています。彼は単に嵯峨野の歴史を研究しているだけでなく、洛外の文化的尊厳のために声を上げ、洛中中心主義の文化的覇権に挑戦しているのです。
二、嵯峨野の「副都心」論:歴史的地位の再評価
2.1 平安時代から南北朝時代の嵯峨野
『京都ぎらい』および関連著述の中で、井上章一は嵯峨野の歴史的地位について重要な再評価を行っています。平安時代から南北朝時代にかけて、嵯峨野は洛中の付属物ではなく、相対的に独立した地位を持つ「副都心」であったと指摘します。
その論拠は主に以下の通りです。嵯峨天皇(786–842)が嵯峨に離宮(後の大覚寺)を建設し、嵯峨野を皇族別業の中核地帯としたこと。後嵯峨上皇(1220–1272)が亀山に亀山殿を建立し、後に足利尊氏が天龍寺に改築したことで、嵯峨野が南北朝時代における幕府の文化政治の重要な場となったこと。藤原定家(1162–1241)が小倉山で『小倉百人一首』を選定し、嵯峨野を和歌文化の聖地としたこと。
2.2 天龍寺「上地」と景観崩壊
井上章一は『京都ぎらい』の中で、明治維新後における嵐山の景観の急速な崩壊について詳細な歴史分析を行っています。明治政府が「上地令」(1871年)を施行し、天龍寺に嵐山山林の管理権を強制的に返上させたことで、嵐山の山林はわずか数年のうちに「絶景」から「荒山」へと変貌したと指摘します。
この分析枠組みは、井上章一一貫の「脱神話化」研究姿勢を体現しています。景観を純粋な精神的・美学的成就として美化することを拒み、その背後にある物質的基盤と制度的条件を明らかにするのです。
三、嵐山の景観の政治経済学:寺院土地制度と近代化
3.1 天龍寺寺領と嵐山山林の管理
『京都ぎらい』および『サライ』誌インタビュー(2016年)の中で、井上章一は嵐山の景観の歴史的形成メカニズムについて深く分析しています。嵐山の山林の美しい景観は自然のままのものではなく、天龍寺の寺領管理のもとで、長期にわたる人工的な介入(植林・剪定・防火管理など)によって形成された文化的景観であると指摘します。
足利尊氏が天龍寺を建立(1339年)した後、嵐山の山林は寺領に組み込まれ、天龍寺が一元的に管理するようになりました。この制度的取り決めにより、嵐山の山林景観は数百年にわたってその美しい姿を保ち続けることができたのです。
3.2 明治「上地令」の景観への衝撃
明治政府の「上地令」(1871年)は天龍寺に嵐山山林の管理権を強制的に返上させ、その結果、山林はわずか数年のうちに「絶景」から「荒山」へと変貌しました。この分析枠組みは、井上章一一貫の「脱神話化」研究姿勢を体現しています。景観を純粋な精神的・美学的成就として美化することを拒み、その背後にある物質的基盤と制度的条件を明らかにするのです。
3.3 近代寺院の拝観料制度と観光化
同じ文脈の中で、井上章一はさらに、明治以降の京都の寺院が「拝観料」制度を通じていかに財政基盤を再確立し、建築と庭園の保全を維持してきたかを分析しています。この制度の確立により、寺院は宗教機関から観光機能も兼ね備えた文化施設へと転換し、嵐山・嵯峨野一帯の寺院(天龍寺・常寂光寺・祇王寺など)はいずれもこの転換の典型的事例であると指摘します。
彼はこれに対して複雑な評価を下しています。拝観料制度が建築と庭園の維持管理を客観的に促進したことは認める一方で、寺院が「宗教的寄付」の名目で課税を回避していること、また一部の寺院の商業的運営(夜間ライトアップの別途料金徴収など)に対しては、明確な批判的態度を示しています。
四、小倉山・常寂光寺:文学的景観と個人の記憶
4.1 小倉山の文学的イメージ
小倉山は嵯峨野の中核的なランドマークの一つであり、藤原定家(1162–1241)がここで『小倉百人一首』を選定したことで広く知られています。定家の山荘「時雨亭」は、常寂光寺仁王門北側から二尊院南側にかけての一帯に位置していたと考えられており、小倉山は和歌文化史上の聖地となっています。
井上章一は小倉山を専門的な研究対象としているわけではありませんが、その著述やインタビューの中で、常寂光寺は小倉山中腹を代表する寺院として、彼の個人的な記憶と嵯峨野への感情的なつながりを担っています。2016年の『サライ』誌インタビューでは次のように回想しています。
「孤独な受験生の頃、井上さんは時々この寺院を訪れたという。観光の波が嵯峨一帯に及び始めた頃でした。東京などの都会から、若い女性旅行者がたくさん来るようになりました。」
この個人的な記憶は、1970年代の嵯峨野観光化の波という歴史的背景を映し出しています。常寂光寺は彼にとって、個人的な青春の記憶の場であると同時に、嵯峨野が「洛外の鄙野」から全国的な観光地へと転換していく過程の証人でもあります。
4.2 嵯峨野の女性哀話の伝統
同じ名所案内の中で、井上章一は嵯峨野の文化的特質について鋭い洞察を示しています。祇王寺(平清盛の寵姫・祇王の隠棲の地)を紹介する際に、次のように述べています。
「嵯峨にはなぜかこうした女性の哀しい話が多いんですね。それが旅行者の心をとらえるのかもしれません。」
彼が挙げる事例には、祇王と仏御前(『平家物語』)、夕霧(清凉寺近くの遊女の墓)、小督(平安時代の琴の名手で、清盛の怒りを避けて嵯峨に隠棲)が含まれます。これらの哀話は嵯峨野特有の「悲劇の女性」という文化的景観を形成し、旅行者の心を引きつける感情的資源となっています。
五、洛外の景勝地の伝統:貴族の別業から近代観光へ
5.1 皇族・貴族の別業地帯としての嵯峨野
井上章一は『サライ』誌のインタビューの中で、「洛外の景勝地」としての嵯峨野の歴史的伝統について体系的に整理しています。
「平安京の時代から洛外は、そのすべてがとは言いませんが、景勝地でした。嵯峨天皇(786~842)は、嵯峨の大沢の池に離宮を造り、それが後に大覚寺となります。近代では近衛文麿が嵐山に別荘・松籟庵を営みます。」
この論述は、千年にわたって貫かれてきた歴史的法則を明らかにしています。洛外は行政的・文化的ヒエラルキーにおいて洛中より低い位置に置かれていたにもかかわらず、都市の喧騒から遠く離れているがゆえに、皇族・貴族、さらには近代の政治家たちにとって別業の第一選択地となってきたのです。嵯峨天皇の嵯峨院(後の大覚寺)、後嵯峨上皇の亀山殿(後の天龍寺)、近衛文麿の松籟庵は、古代から近代に至る「洛外別業」の系譜を形成しています。
5.2 嵯峨野観光化の歴史的区分
井上章一の論述をもとに、嵯峨野観光化のいくつかの重要な歴史的節点を整理することができます。
| 時期 | 主な出来事 | 景観への影響 |
|---|---|---|
| 平安時代 | 嵯峨天皇が嵯峨院(大覚寺の前身)を建立 | 嵯峨野を皇族別業の地として確立 |
| 鎌倉初期 | 藤原定家が小倉山で『百人一首』を選定 | 小倉山が和歌文化の聖地となる |
| 南北朝 | 足利尊氏が天龍寺を建立、嵐山が寺領となる | 嵐山の山林が天龍寺の一元管理下に |
| 明治維新 | 政府の「上地」で天龍寺が嵐山寺領を失う | 嵐山の山林が荒廃、景観が急速に崩壊 |
| 1970年代 | 全国的な観光ブームが嵯峨野に波及 | 常寂光寺などの境内が整備され観光客が急増 |
| 現代 | 嵯峨嵐山が京都最重要の観光地の一つに | オーバーツーリズム問題が浮上 |
六、『つくられた桂離宮神話』の方法論的意義
桂離宮は嵯峨野の南、桂川西岸に位置しており、嵐山・嵯峨野の中核地帯ではありませんが、井上章一の1986年の出世作『つくられた桂離宮神話』(弘文堂、後に講談社学術文庫に収録)は、彼の嵐山・嵯峨野研究の方法論を理解する上で根本的な意義を持っています。
本書の核心的論点は、桂離宮が「日本美の典範」とみなされる神話は、建築そのものの客観的な優越性に由来するのではなく、1930年代のドイツ人建築家ブルーノ・タウトによる「発見」と、日本建築界のモダニズム運動の台頭、さらには戦時ナショナリズムの高揚が相まって「製造」されたイデオロギー的構築物であるというものです。
「著者は、タウトに始まる桂離宮の神格化が、戦時体制の進行にともなうナショナリズムの高揚と、建築界のモダニズム運動の勃興を背景に、周到に仕組まれた虚構であったことを明らかにする。」(講談社版書介)
この「脱神話化」の方法論は、彼の嵐山・嵯峨野に関する論述全体を一貫して貫いています。嵐山の山林景観を「自然美」の天然の賜物とみなすことを拒み、その背後にある寺院経済のメカニズムを明らかにし、洛中の文化的優越性を歴史的事実とみなすことを拒み、その背後にある政治権力の作動を明らかにするのです。
七、「嵯峨野と太秦 そして京都」講演(2026年)
2026年2月21日、井上章一は京都・太秦の高津古文化会館で「嵯峨野と太秦 そして京都」と題する講演を行いました。これは嵯峨野を中核テーマとした彼の最新の公開論述です。講演では嵯峨野と太秦(秦氏の歴史的拠点)を並置し、両地が京都文化史において占める位置とその相互関係を探りました。このテーマ設定は、彼一貫の「洛外視点」を継承し、洛中中心主義によって覆い隠されてきた京都周辺地帯の歴史的価値を再評価しようとするものです。
それ以前にも、NPO法人「さらんネット」(嵯峨嵐山地区文化保存組織)の定例講演会において、「嵯峨育ちから見た嵯峨野観光」と題する講演を行い、当事者の視点から嵯峨野観光化の歴史的経緯を振り返り、現代の観光業の発展に対して批判的な考察を提示しました。
特に注目すべきは、井上章一が2020年に日文研所長に就任して以来、機関誌『NICHIBUNKEN NEWSLETTER』に「京都の端から、こんにちは」と題する定期コラムを継続的に執筆していることです。2025年3月時点で第52回まで発表されています。
このコラムのタイトル自体が、「洛外者」としての彼のアイデンティティを継続的に宣言するものとなっています。「端」(はし)は地理的な洛外の位置を指すと同時に、京都の文化的ヒエラルキーにおける周縁的立場をも意味しています。コラムの内容は京都の文化史・建築史・日常観察と幅広く、嵯峨野一帯の記憶と見聞はその重要な素材となっています。
八、学術的評価と思想的文脈
8.1 建築史学における位置づけ
井上章一の学術的業績は、日本の建築史学界において独自の位置を占めています。彼の研究は伝統的な建築技術史や様式史ではなく、建築を切り口として「観念史」(Ideengeschichte)——特定の建築や空間が特定の歴史的条件のもとでいかに特定の意味と価値を付与されてきたか——を探求するものです。このアプローチにより、彼の研究は建築史・文化史・社会史・思想史の境界を越え、広範な学術的影響力を持っています。
嵐山・嵯峨野研究の文脈においては、この地帯の景観史を「自然美の鑑賞」から「政治経済学的分析」へと転換し、景観の生産・維持・崩壊の背後にある制度的メカニズムを明らかにしたことが、彼の最大の貢献です。
8.2 京都文化景観研究との対話
京都大学などの研究者(山口敬太・樋口忠彦など)は、景観生態学と景観デザイン史の観点から、嵯峨野の景観変遷について体系的な実証研究を行っています。井上章一の論述は量的データへの依存度が比較的低いものの、寺院の土地制度と景観保全の関係についての洞察は、これらの実証研究と重要な理論的対話を形成しています。
例えば、樋口忠彦(2007年)の研究は、嵯峨野の歴史的風土特別保存地区(小倉山山麓の山辺と竹林134ha・北嵯峨の田園地帯224ha・嵐山および松尾の一部180ha)の指定が、現代の景観保全における制度的成果であることを指摘しています。この制度の確立は、明治維新の「上地」によってもたらされた景観崩壊への歴史的修正として捉えることができ——それはまさに井上章一が明らかにした歴史的問題への現代的回答です。
九、結語:周縁者の知識生産
井上章一による嵐山・嵯峨野・小倉山一帯の著述と研究は、以下のいくつかの次元から総括することができます。
第一に、アイデンティティ政治の学術化。 自身の「洛外者」としてのアイデンティティを出発点とし、個人的な文化的屈辱の経験を「洛中中華思想」への体系的批判へと昇華させ、京都の文化的ヒエラルキーの歴史的構築性を明らかにしました。
第二に、景観史の脱神話化。 嵐山の山林景観を自然のままの美景とみなすことを拒み、その背後にある寺院土地制度・林業経済・政治権力の複雑な絡み合いを明らかにし、景観史研究に新たな分析枠組みを提供しました。
第三に、歴史的「副都心」論。 建築史家の視点から、平安時代から南北朝時代にかけての嵯峨野の「副都心」としての歴史的地位を再評価し、洛中中心主義の歴史叙述に挑戦しました。
第四に、方法論の範例的意義。 『つくられた桂離宮神話』が確立した「脱神話化」の方法論は、嵐山・嵯峨野に関する彼のすべての論述を一貫して貫き、その研究の方法論的核心を形成しています。
第五に、公共知識人としての役割。 『京都ぎらい』から日文研通訊コラム「京都の端から、こんにちは」、各地での公開講演に至るまで、井上章一は嵯峨野出身者の視点から京都文化の公共的議論に継続的に参与し、学術研究と公共言論を相互に豊かにしています。
嵐山・嵯峨野・小倉山は、井上章一の著述の中で、個人的記憶の地理的座標であると同時に、日本文化史を解剖する解剖台でもあります。この地帯を通じて、彼は周縁の位置から中心に対して最も鋭い知識批判を生み出す方法を示しています。
主要著述と参考資料
主要著述一覧
| 著述/活動 | 年份 | 出版/主催 | 嵯峨野関連内容 |
|---|---|---|---|
| 『つくられた桂離宮神話』 | 1986年 | 弘文堂(後に講談社学術文庫) | 方法論的基盤;桂離宮神話の解体 |
| 『京都ぎらい』 | 2015年 | 朝日新書 | 嵯峨野の洛外アイデンティティ、天龍寺上地、嵐山景観崩壊、嵯峨副都心論 |
| 『京都まみれ』 | 2019年 | 朝日新書 | 洛中中華思想批判;嵯峨野の文化的地位 |
| 『サライ』誌インタビュー | 2016年 | 小学館 | 嵯峨名所案内(常寂光寺・祇王寺・清凉寺・小督塚);洛外景勝地論 |
| 「嵯峨育ちから見た嵯峨野観光」講演 | 不詳 | NPO法人さらんネット | 嵯峨野観光史の当事者視点 |
| 「嵯峨野と太秦 そして京都」講演 | 2026年2月 | 高津古文化会館 | 嵯峨野と太秦の文化史的関係 |
| 「京都の端から、こんにちは」コラム | 2020年〜現在 | 日文研通訊 | 嵯峨野の日常記憶と文化観察(連載中) |
参考資料
[1] 井上章一,『京都ぎらい』,朝日新書,2015年。
[2] 井上章一,『つくられた桂離宮神話』,弘文堂,1986年(講談社学術文庫版,1997年)。
[3] 井上章一,『京都まみれ』,朝日新書,2019年。
[4] 「井上章一さんが語った京の周縁『洛外』の魅力」,『サライ』,2016年10月号。
[5] 「大ベストセラー『京都ぎらい』の筆者が語る『京都中華思想』」,Wedge ONLINE,2025年11月。
[6] INOUE Shōichi,個人ページ,国際日本文化研究センター。
[7] 樋口忠彦,「京都・嵯峨野における景色の持続と変容」,日文研,2007年。
本稿は学術的参考を目的として作成されたものです。